〈船木倶子・Essay〉
わたしの詩は
わたしの父・雄治郎は男鹿半島(秋田県)の船越に生まれている。
かつては郡方御役屋が置かれていたそれなりの町である。
「……狭え処には住めね(ない)」 父は云った町から一里ほど離れた原野を父は開墾していた。
戦後は食料増産が叫ばれ、開墾が奨励された時期もあったが、
父の場合は戦争が始まる以前から。召集されもしたが、除隊してからは再び、鍬ひとつの開墾は続けられた。
のちにわたしはそこで産まれた。ただ一軒である。むろん電気などあるべくもない。
林檎の果樹園があり、土地は広々としていた。いくつかの小屋があり、かなりの数の七面鳥や孔雀、
シャモや鶏。緬羊や黒い山羊、黒い豚……。牛もいたが、肉牛ではない。あくまでも父の愛玩用であった。
動物園のようだ、と見にくる人もいた。家計のほとんどが飼料代に消えていった。
庭を愛していて、敷地には濠(ほり)や、家よりも高く土盛りされた築山や土手があり、
土手の位置は何度か変わった。父はひがな一日、庭をながめていた。
父に、「松葉は痛い」と云ったことがある。
「……生ぎでる松葉は痛ぐね(痛くない)」
実際そのようであった。生きてるもののいのちはみなまろく、やわらかであった。
「すみれはいいね」
「……野生のすみれはいい」
父は答える。それは残雪のなかに咲きだした一茎のホンスミレのことであった。
その父のすべてがわたしだと想うことがある。
父の想いがわたしに詩を書かせていると思うことがある。
「詩と思想」April '04
土手の裏で '67
父の愛した庭 → 〈立ちどまる〉
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